平和安全法制その1

戦争法制とも揶揄される標記法制は、実体、10の現行法改正・1本の新法制定という一般市民・laymanにはとても消化不能の法整備と考えられるが、その要諦は、所謂3要件により制約される制限的集団的自衛権の行使が、憲法解釈変更による憲法の枠内か、それとも、憲法違反かと言う事の様であり、国会議論を垣間見たり、連日のメディア報道をみれば、その様に確かに思われる。

ところで、戦争法制とネーミングしたのは福島瑞穂社民党現副党首の様であり、安部首相が、レッテル貼りで法制の本質を誤らせては建設的議論が出来ないと反論するとしても、現行"平和”憲法違反か否かが問われているとすれば、正に、当意即妙、議論の本質を突いたネーミングとも言える。

そして、この憲法違反か否かという点については、正しく百家鳴争、諸"専門家”の意見・異見が百出している訳であり、結局、維新の党(の橋本最高顧問)が言う通り、最高裁の憲法判断を待つしかないのではないかと思われる。

そこで、この合憲・違憲問題を、今、脇に置くとすれば、この平和安全法制に、(要諦となる)問題点は存在しないのか、するのか

ちなみに、私は、’70年・第二次安保闘争・全共闘世代に属する。
(余談であるが、著書国策捜査で名高い佐藤優氏は、外務省の当該世代をみて、若い時に基礎的な教育・勉強をしていないから、資質的に劣ると書いていたと記憶する。
私の場合は正にその通りで、入学した7月から夏休みを兼ねた全学ストが始まり、それから1年半、ほとんど授業を受けることもなく学部に進学したが、進学したらしたで、これは世間一般には全く知られていないが、農経紛争なるものが始まり、まともな授業は最初の3か月位で、最後は、”卒業派”・”非卒業派”に分かれ、学内では授業が出来ない為に、学士会館等を転々として、一般の卒業から1月遅れの4月末卒業となった。尤も、これは全く私個人の事であり、学友は、それらを超えて、勉学に励まれていたと思う)

そして、この時に、よく言われていた事が、日米安保条約の片務性と言う事である。

最も、この“片務性”も、60年の第一次安保闘争時においては、日本の、一方的な、米国に対する基地提供義務という片務性をさし、それを、条約改定により、”双務”的に、米国の日本に対する防衛義務を明確にするということであった。

従って、70年の第二次安保闘争時における“片務性”とは、米国は日本を防衛する義務を(日本の基地提供を見返りとして)負うが、日本が、米国を防衛する義務はない、と言う意味であった。

そして、私が現在まで見聞きした中で、この点に、今の国会論議・メディアは全く触れず、唯一言及したの、BSフジのプライムニュースに亀井静香氏と共に登場した藤井裕久氏だけであり、過去に日本が軍事同盟を結んだのは日英同盟・三国同盟だけであるとし、現行の安保条約には、この片務性があると、"意見"されていた。

しかし、この片務性が、安保条約の条文上は、”日本国の施政の下”にある領域での武力攻撃に対し、”(日米各々の)自国の憲法上の規定及び手続きに従って”対処するとなっている事からかどうか、現下法整備の直接の契機となった(と思われる)尖閣問題に対し、当初、米国が中々、安保条約の対象となるか否かを鮮明にせず、ようやくヒラリークリントン前国務長官(’13・1・18)が、そしてオバマ大統領(’14・4・24)が言明した経緯がある。

所で、標記法制合憲論者の最右翼の一人と考えられる駒澤大学名誉教授西修氏の「いちばんよくわかる憲法第9条」を読むと、その第6章のまとめで、氏は(制限的)集団的自衛権は「『権利』であって、『義務』ではない事を確認しておく必要がある」と記されています。

確かに、仮に、中国が尖閣列島を正規軍で攻撃して来る場合に、日米両軍で迎撃しようとする際、中国乃至第3国から、日本が単独で戦おうとせずに米軍と共闘しようとするのは、国連憲章や国際法等に違反する等と主張された時、いや、(制限的)集団的自衛権は、国家固有の『権利』だと主張するのは当然であると思われる。
また、(どうしてそう言う事になるかはよく分からないが)、仮に、朝鮮半島有事(乃至、見込まれる)場合に、邦人輸送に当たる米艦船が攻撃を受けた際、日本軍艦が反攻するとして、(制限的)集団的自衛権の『権利』を行使するのだと主張するのも理解する事は可能である。

しかし、「事例集」にある、仮に、北朝鮮から米本土に向けた大陸間弾道弾が発射された際に、日本のイージス艦がこれを撃ち落とすのは、(制限的)集団的自衛権に基づく『権利』だ、と言うのは、一寸、おかしくは無いか

即ち、前2者では、日本の領土乃至国民の権利が侵される・侵されようとしているのだから、日本が(制限的)集団的自衛権の権利を行使して、米軍と共に闘うと言うのは分かるが、では、何故、この際、米軍は集団的自衛権を行使して日本と共に闘うのか

それは、現行日米安保条約に基づき、日本防衛の義務を負っているからであろう。即ち、米国は、集団的自衛権行使の『義務』をおっているからではないのか

とすれば、集団的自衛権を行使する際に、『権利』と言うのは敵対国に対してであって、味方乃至同盟国に対する場合は、『義務』である筈である。従って、何等の根拠なしに、即ち、二国間条約上の根拠無しに、「勝手」に、他国の戦争に、制限的即ち自国国益上の根拠だけから、集団的自衛権行使は権利だと言って参戦する国は考えられないんではないか。
上の3番目の仮にの例で、日本の領空権が侵されるわけでもなく、国民に危害が及ばないにも関わらず、集団的自衛権を行使するのは、『権利』である筈がなく、『義務』でなければ、それこそ、自国の国益を損害する行為と言わざるを得ないと思われる。
(第一次大戦に日本が参戦し、「濡れ手に粟」的に一等国の仲間入りを果たしたのも、先の日英同盟の双務性の故であろうし、結果的に悲惨な結末となった第二次大戦にも、三国同盟の双務性そのものとは言えないかも知れないが、同盟そのものが影響を及ぼした事は間違いないであろう)

この点、標記法制違憲論者の最左翼の一人と考えられる慶応大学名誉教授の小林節氏は、法案は「政策としても愚か」だと『件』の衆院特別委員会で陳述されているが、この「愚か」の意味は新聞紙上からだと判然としないし、上述の意味合いと全く違うかもしれないが、首肯し得る言葉と考える。更に、維新の党は、修正案として、「武力攻撃危機事態」を新たに設け、定義として、「条約に基づき、日本周辺で、日本の防衛のために活動している外国軍隊への武力攻撃が発生し、・・」云々と、明確に、日米安保条約を前提とした修正案を提示している。

日本は、中国とは違う(眞の)民主主義・法治主義の国だと言い・言われ、正に、その故に標記法制が発議・議論・整備されようとしている筈であるが、その中に、現行安保条約の片務性を、実態的に双務性へと変換しようとする内容が含まれているにも関わらず、その安保条約そのものの改定が全く議論・発議されない不可思議さを、正しく、不可思議に感じる。

しかし、日米は既に4月27日に、”防衛協力のための指針(ガイドライン)”なるものを改定し、実態的に、憲法・安保条約・平和安全法制の論議を飛ばして、”その内容”にコミットしてしまっている訳であり、言わば、事後承認・形式的に現下の国会論議がなされていると思わざるを得ない。(特に、国会の長期延長・採決日を何時にするのかと議論されている今、この時を見れば)

上述、標記法制が憲法違反か否やは、究極的専門家である最高裁の判断を待たざるを得ないと思うが、現行安保条約の実態的改定を、ガイドラインと言う行政協定(?)乃至”制限的”と言う枕詞付集団的自衛権権という概念で行ってしまっている事が明確に認識されていない・明確にして議論していない事に、非常に重大な問題があると思われる。

無論、現下の赤色新帝国主義と称して構わないと思われる中国の膨張に対し、政治・行政として出来得る限りの最大限の対応をしていく事は当然であり、その対応実務は、専門家である(与党)政治家(のみならず、現下の野党政治家も含め)、また、(外交官・防衛官僚のみならず全ての)行政官僚が国民の負託を受けて行っていくべきな訳ですが、主権在民・民主、法治主義国家と言うことであれば、その対応には、踏むべき議論・手続きがあり、それらが明確に提示・議論されていくべきではと思う次第である。