失われた30年~その3の4

そして、所謂金融ビッグバンに至る契機を為したのが、野村・一勧を巡る「事件」である。

既に、“総会家”に対する利益供与は「商法の改正で・・・処罰されることになった82年10月からは、従来のような現金供与を公然と行う殊は控える」(会長はなぜ自殺したか;読売新聞社会部)ようになった。
しかし、先述「大口顧客へ損失補填していたことが判明・・・91年に野村證券の会長・社長が辞任」していた所、「野村證券の当時の社長は、”証券界のドンの復権を実現させるために、(元総会家)・・・に株主総会を仕切ってもらうよう自ら依頼し、その見返りとして利益の供与を約束し・・・自己取引で買い付けた株式の利益を付け替える『花替え』により利益を捻出したが、それでも足りない。結局、子会社の野村ファイナンスから3億2000万円の裏金を・・・(直接)手渡」(https://biz-journal.jp/2012/06)していたのである・
結局、この社長は「97年3月」に「社長を引責辞任。商法違反(利益供与)と証券取引法違反(損失補填)に問われた」(同掲)のであるが、(元総会家)に関わる「利益供与」事件は、これだけに収まらなかった。

この(元総会家)小池隆一氏は、商法改正後『「残された道は、株をやって合法的に儲けることだけだ」と・・・知人に語っていた』と言う事で、『企業の総務担当者が、まだバブルが始ったりの85、6年頃「なぜ、そんなに株ばかりやっているのか」と小池に尋ねた』(読売)ほどであったと言う。
但し、その株取引の実態は「四大証券の株を大量に買う。1社30万株ずつ、合計120万株。・・・30万株以上持てば、・・・『株主提案権』をちらつかせることによって、証券会社に株の不正取引を行わせ、儲けさせてもらう」(読売)と言う、“損失補填”“利益供与”前提のものであった。
従って、先の「1997年、野村證券の元社員の内部告発から発覚した利益供与事件」(週刊新潮 2016年3月3日号)においては、「ドンの復帰」という悲願達成の為の総会対策依頼目的の利益供与とは別途、元々の“大企業―総会家”の関係からの利益供与があった訳であり、「野村證券社長のみならず同役員2名、山一証券社長以下8名、日興證券副社長以下4名、大和証券前副社長以下6人が、97/5~11/6日の間」(読売から)に逮捕されている。

しかし、野村の株はバブル当時6000円の最高値を付けている。30万株で18億円である。

そこ迄の“高値”掴みではなかったであろうが、「四大証券株の購入資金約31億円」(読売)に上ったという。

当然、この資金は小池氏の自己資金ではなく、その提供元が第一勧業銀行、一勧であった訳である。
一勧はこの約31億円を89年に貸出したようであるが、「小池に対する不正融資は85/3月から始まっていた。・・・(一勧の)社内調査結果によると・・・迂回融資は総額186億円・・・直接融資も274億円・・・つまり96/9月迄の11年6月もの間、総額460億円もの資金が、たった一人の総会屋に流れ込んでいた」(読売)が、「現旧合わせて11人の第一勧銀幹部が商法違反(利益供与)で起訴」(97/6/5~7/4間に逮捕)されたものの、「迂回させて、・・・117億82百万円の不正融資を実行」したという嫌疑であり、「3年という商法の時効に係らない部分だけで、同行の不正融資の一端に過ぎない」(読売)ものであった。

しかし、何故「たった一人の総会屋」にこれだけ巨額の貸出しを行ったかについては、読売の本の題名「会長はなぜ自殺したか」が表わすように、88~96年にかけ頭取・会長を勤めた宮崎邦次氏が“証言”することがなかったために、直接的・明示的経緯は不明のままであるという。
しかし、一勧で「長く総務部長を務めた(某)氏が『呪縛』と呼」び、「経済の55年体制とでも呼ぶべきものだ」と「検察幹部の一人はそう語っ」(読売)と言われているように、一個人対一企業の関係・癒着から生じた物ではなく、現に、小池氏自身が「事件後、(一勧の後身の)みずほ銀行が、私に損害賠償の訴訟を起こしたけど、結局、私の受け取った金じゃないことが分かって請求も退けられました」と「「俺の口座を通り過ぎた270億円;週刊新潮 2016年3月3日号」の中で語っている。~460億円でなく270億円であり、しかも、小池氏の口座を“通り過ぎた”だけであるというのである。~『「55年体制」とは、1955年以来続いた自民党の一党支配体制を指す。淀んだ政治の背後で、財界でも構造的な腐敗が連綿と引き継がれてきたのである』(読売)

そして「第一勧銀を覆った呪縛の伏線」となった出来事として、「神戸製鋼の内紛」(68~69年)が同書に記述されており、その神戸製鋼が有力取引先であった当時の第一銀行も、結果的に救われたことにより、「経済の55年体制」に組み込まれたのではと推測している~偶々か否かはいざ知らず、「当時、第一銀行の神戸支店次長(が)・・・後に頭取・会長となる宮崎』氏であったとも記載されている。

この55年という年は、前掲長期経済統計短評のとおり、「もはや戦後ではない」とのスローガンの下、日本の高度成長の第一波、神武景気に突入していた時であった。
そして、「神戸製鋼の内紛」とは、1965年、昭和40年4月 に神戸製鋼が尼崎製鉄を吸収合併した事に伴う、両社の経営陣の主導権争いに係るものであったのだが、この昭和40年という年も、日本経済史上、一つのエポックメイキングな年であった。

山一証券への公的資金投入、日銀特融が発動されると共に、赤字公債の発行が始ったのである。
前掲短評の通り、池田内閣「所得倍増計画」の下、日本経済は高度成長第二波岩戸景気(’58/6~61)を迎え、引き続く「東京オリンピックや新幹線の整備などによる総需要の増加、オリンピック景気(高度成長大三波、’62/10~64/10)で、日本経済は高い経済成長を達成していた。」が、この第3波は「同時に証券市場の成長も促し、投資信託の残高は1961年に4年前の約10倍となる1兆円を突破した。この勢いは、当時、「銀行よさようなら、証券よこんにちは」というフレーズが流行るほどだった。」 (wikipedeia)
しかし、「東京オリンピックが終了し、金融引き締めも重なると、企業業績の悪化*が顕在化した。1964年にサンウェーブと日本特殊鋼(現大同特殊鋼)が、1965年には山陽特殊製鋼が負債総額500億円で倒産(山陽特殊製鋼倒産事件)」する等、所謂、証券不況('64/10~65/10)に落ちいったのであるが、この時、拡大していた直接市場において「大手証券会社各社が軒並み赤字となった。大手証券会社は金融債を顧客から有償で預かってコールマネーの担保に入れるというレバレッジ」(同wikipedeia)をかけ、“証券ブーム”を自己演出していたのである。
*オリンピック景気の「昭和39年度には、経済白書が『利益なき繁栄』と表現したように、我が国の経済成長率は10.5%の伸びをみせ、国際収支も改善したが、企業収益は悪化し、倒産が激増した。これは、過去の過剰設備投資に伴う金利や減価償却費の増大、賃金の上昇が大きな負担となり、それをカバーするため、需要の減退にもかかわらず生産を拡大せざるを得ず、滞貨の増大を招いたことによるものであった」(www.dhbk.co.jp/company/library/pdf/h_21.pdf)
と第四北越銀行レポートには記述されている。

この金融債は、長信銀3行・為替専門銀行である東銀及び組合系中央銀行の商中と農中の6行に発行が(その後、信金中金にも)認められていたものであるが、それは、都銀等店舗網を整備していない所、“無記名”という“特典”を活かして預貯金吸収手段の代替となっていたものである。~資金不足時代における業態別・垣根別金融制度の一環を担うものであったが、筆者がその販売を経験した70年代初頭には実質“記名債券“化しており、「バブル絶頂期の1980年代末、「北浜の天才相場師」と呼ばれ[1]、一料亭の女将でありながら、・・・1987年から日本興業銀行の割引金融債ワリコーを288億円購入」(wikipedia)し、その後、「東洋信用金庫支店長らに架空の預金証書を作成」させ巨額詐欺事件で逮捕された尾上縫、また、「1993年(平成5年)3月6日、金丸は脱税容疑で逮捕され・・・邸の金庫から30億円の割引債や金の延べ棒などが押収された」が「脱税などの起訴事実を否定し、30億円は政界再編に備えて長年にわたり蓄えていた資金であると主張した」(「政界のドン」金丸信(7)2011年9月11日日経の記事利用サービス)金丸前幹事長等、世間の耳目をひいた事件もあり、基本資金余剰時代において、2000年当初から各行とも暫時発行を停止、「2015年時点では、・・・一般向けの売出債はすべて発行を終了している」(wikipedia)

証券会社は本来「銀行など金融機関と違って、預金受け入れ・貸し出しを通じて信用創造を行うわけではない。また、会社の資産と客の資産は区別されているため、どんな大手証券が破綻したとしても、金融システムをはじめ経済の根幹に理論上は影響がない」のであるが、上述の経緯を持つ金融債を「顧客に販売するとともに、その割引債を『運用預かり』という形で、事実上の利子である償還差益に利子を上乗せして預かり、それを短期金融市場や銀行などから資金を取り入れる際の担保に差し出し、事実上の信用創造を行っていたのである」(川北 隆雄 「失敗」の経済政策史 )とされる。

ここで、信用創造は、Laymann’sMutterのマネー・サプライに記述したように
現金の和:q/(q+s)*H
預金の和:1/(q+s)*H
支払準備の和:s/(q+s)*H
  ハードマネー 預金比率q(=C/D)    支払準備率s
であるので、例えば
H=1  q=0.1  s=0.01
とすると
現金の和=0.1/(0.1+0.01)=0.909 
預金の和=1/(0.1+0.01)=9.090 
支払準備の和=0.01/(0.1+0.01)=0.090
と通常は9倍の信用創造が行われる。
しかし、上述のように、証券会社が『運用預かり』と言う形で、この民間・市中と銀行の間に介在すると、銀行と証券会社の間で別々に“信用創造”が行われるか、銀行の信用創造機能には変化なく、単に証券会社が“レバレッジ”を効かせた営業乃至運用を行っているのか、それとも、銀行の信用創造機能にとって変って証券会社がその機能をはたしているかどうかの疑念が残る。
そこで、証券会社が十分条件的に信用創造を行なうと仮定したときは、当然、s、預金準備率は0となるので、上記例の現金・預金・支払い準備の各和は、1・10・0となり、乗数過程が完結した場合の乗数は大きいものになる。ただし、預金支払い準備は0であるから、“日常的”払い戻しは出来ないことになる。
一方、証券会社の信用創造は別途、この場合における銀行のそれは如何なる事になるのか~銀行個別ではなく金融債発行行全体・1行として考えると、その発行で得た資金を全額(利差・手数料・支払い準備を考慮外として)”払い戻し”ている事になり、そもそも信用創造過程に投入された資金にはならない、と考える。~実は、この金融債の販売実績を”伸ばす”為に、取引先に対し、その購入資金を貸付て、販売する、両建て”膨らませる”と言う事をやらされていた時代がある。利差分が、その取引先の”協力金”であった訳である。この点、(定期)預金担保貸付も類似の外形となるが、これは企業自体の資金繰りの狂いから生じるといえ、解約や通常借入より有利である場合が“通常”であろう。ただ、いずれの場合も、それら資金は預金者の手元に戻った・現金となったという事から、信用創造過程から外れ、乗数過程の完結はなされなかったと言える。
とすれば、『運用預かり』により得た資金で“自己ポジション”“手張り”をやり、“相場”を“盛り上げた”“自己利益”極大化を図った、という意味での先述“レバレッジ”を効かせた、と言う事かとも言える。
しかし、元々、「社の資産と客の資産は区別されている」segregateされているべきものであり、金融債の”現物”預かり自体は、元本保証のない投資信託、満期乃至引出期制約付き預金等とは違う筈のものである。~このbackとfront・tradingとcustody・顧客勘定と自己勘定の未分化・曖昧さは、筆者が外債運用担当になった80年代にも残っており、当の山一証券と外債の売買をしても、モニター表示の価格から1ポイントもズレる。
そこで、その理由を探ると、結局、売買相手の山一自体がcustodianであるために、他の証券と取引しようとすると、その”物”を動かさねばならず、それを行う国際的保管専門会社が未だなかったと言う事である。幸い、間もなくeuroclearが出来、そのような不便はなくなった。また、当時、米国3か月国債・TBの円スワップ付き投資をある中堅証券と盛んにやっており、それを引き継いだのだが、同じような取引を他の証券とやろうとしても、どうも”レート”が出ない。基本、TBを購入し、これに円売り・ドル買いで円投、償還に合わせて逆ポジションの先物為替予約をつけるのだが、このTBの保管と為替売買がセットになってその証券からレートが提示されるものであった。で、結局、他社でレートが出ない取引をやる事は憚られ自然と沙汰止みとした。~それから、所謂firewall等の管理強化が喧伝された後、随分と時間がたち、今、ここで「分譲」着工のピークを記述しているまさに95年に、英国の名門MerchantBank,BearingBrothersが倒産した。それは、そのシンガポール支店のトレーダーが自己ポジションの取引に失敗した事によるが、なぜ、本体自体が倒産する程までに損失が膨らんだかといえば、そのトレーダーがbackの事務まで一緒に行っており、売買の決済settlementと帳簿上の保管残高が相違し、実態把握が出来なかったからであった。~この様に見れば、レバレッジというFE的表現より、管理が”大らか”であった時代における”証券的商売”と言った方が一番適格だと思われるが、この『運用預かり』は“当然”ながら「968年(昭和43)証券業の登録制から免許制移行と同時に廃止された」。ただ、先述、損失補填の対象となり禁止された営業特金や、会長退陣後復権した”証券業界のドン”がバブル期に強烈に推進した”預かり資産”と言う、銀行・機関投資家と違い、本来broker・手数料商売である証券会社が資本ではなく資産に対し興味を抱き続けてきたということはある。信託がその信託預かり資産の獲得の営業努力をするということは別途。

結局、「岩戸景気後の不況下で、1962年ごろから低調だった証券市場は63年秋以降さらに沈滞し、64年1月には株式買い支えのための中立的機関として日本共同証券が設立され、いわゆるダウ1200円防衛戦が展開されましたが、決め手にはならず・・・山一証券・・・は、64年9月期決算で多額の赤字を出し、経営トップが突然辞意を表明」(日経ウェブサイト)していたが、「大蔵省・・・の報道(を)自粛・・・要請外にあった(西日本)新聞が(65年)5月21日朝刊で山一問題を扱い、これをきっかけに各紙が同日夕刊でいっせいに山一の経営の苦境や再建策を報じ」られた結果、「山一に対し、運用預かり金融債の引き出しや投信の解約が急増し・・・取り付け的な状態」(同日経)になった。

この時登場したのが、後の総理大臣・今太閤、当時の田中角栄大蔵大臣であった。
「西日本新聞の特ダネから1週間後の同月28日午後7時過ぎ、この日銀氷川寮に金融界の重要人物7人が集まった。…最大のキーパーソンである田中角栄蔵相が到着したのは午後9時ごろである。…「とうとう田実(三菱銀行頭取)がつぶやいた。/「こうなったら、二、三日証券市場を閉めたらどうですか」…おそろしいドラ声が田実の頭上に飛んできた。/「手遅れになったらどうする! それでもお前は銀行の頭取か」」(水木楊『田中角栄 その巨善と巨悪』日本経済新聞社、1998年)。…田中が田実を怒鳴ったのは、実は、…旧態依然たる日銀そのものに対するメッセージだったともいわれる。いずれにせよ、田中のこの一喝で流れは決まった。日銀法第二五条を根拠とした特別融資が3行経由で山一に適用され、「無担保・無制限」に資金が融通されることになった.…山一への日銀特融を決めた果断さは、氷川寮に集まった一流大学卒の単なる学歴エリートたちには決して真似のできないことだったに違いない。」(前掲川北著書)と記されている。
この田中角栄は、早坂茂三氏の『宰相の器』によると、『田中角栄は「彼(=宮澤)は秘書官だ。秘書官としては一流だった。しかし、それだけだ。政治家ではない」と評した』とされるが、先述、三重野日銀総裁は「1992年(平成4年)には、…自ら日銀特融として公的支援することを宮沢(首相)に約束していたにもかかわらず、宮沢が各方面の反対を受けてあっさりと腰砕けになってしまったことに非常に苛立っていた」という。~政治vs官僚、財政政策vs金融政策、実践(家)vs理論(家)、更には、リーダー型vs参謀型、問題発掘型vs問題解決型というpersonalityも絡み、一概に決せられぬと思われるが、権力・権威の行使が、己が権力・権威の維持・拡大の為だけに為されるとき、その時の国家・国民は救われぬ事になるのは間違いない、と考える。~殊に、現下の未曾有のコロナ戦を戦いつつある時に。

一方、同じ65年6月、「今後の日本経済に関して大蔵省代表の下村治と日銀代表の吉野俊彦との間で以下のようなやり取りが行われた。
下村「たとえ赤字国債でもためらわず発行すべきです。でないと手遅れになります」
吉野俊彦(日銀代表)「国債発行は禁断の木の実になるおそれがあります。満州事変以降の苦い経験を忘れてしまったのですか」
下村「政府に、勇気があれば、すむことです」 — NHK そのとき歴史が動いた
結果、同年7月に株価は一時1,000円割れ目前に迫るも、同月下旬、赤字国債を発行することを発表。11月19日には戦後初の赤字国債の発行を閣議決定。1月29日発行された。これらの影響により、いざなぎ景気(高度成長対四波、’65/10~70)がおき、高度経済成長は持続していった。そして、製造業の稼働率指数は1967年から1970年まで120%を越え[6]、1968年には西ドイツのGNPを抜き、世界2位となった。」(wikipedia)

この時に発行された昭和40年度末(66/3)における普通国債残高は2千億円であったが、戦後~現在に至る迄の最大の好景気、期間GDP成長率10.5%を記録しながらも、その昭和45年度末同残高は2兆8112億円となっている。~稼働率指数が100%超えという有効需要“過剰”の中で、財政政策が行なわれ続けたのである。~所得倍増計画の立案者・0成長理論の提唱者である下村氏であっても、「「政府に、勇気」があろう筈がない事を認識されてはいなかったのであろうか

このいざなぎ景気末期にかけ、産業界・金融界において事業再編・効率化への動きが強まった。
この産業界における代表的動きが「鉄は国家なり」といわれた鉄鋼業界におけるものであり、「鉄鋼業界が成熟段階に入ったことによる需要の伸びの鈍化への対応、資本の集約による過剰な生産の調節、ヨーロッパ諸国における鉄鋼業の再編[4]に対抗し、資本自由化やケネディ・ラウンドによる関税引き下げにも対応しうる国際競争力の確立」の必要性等から「1968年(昭和43年)4月、八幡製鐵と富士製鐵の合併」が公表される。~両社の「前身の日鉄は、1934年(昭和9年)に官営八幡製鐵所を中心に官民の製鉄業者を合同(=製鉄合同)して発足した企業」であり、戦後、「財閥解体の対象となり、過度経済力集中排除法(集排法)の適用を受けて1950年(昭和25年)4月に解体され・・・八幡製鐵富士製鐵」となっていたが、「八幡製鐵所は・・・戦前から「鋼材のデパート」呼ばれ、・・・多品種の生産設備を持っていた。その一方で設備の改善が遅れ・・・老朽化が進んでいた。」その為、分離後3次の合理化が進められ「新日鉄発足直前の1969年度の粗鋼生産量は1626万トン」に達していた。また、富士製鉄も、「第3次合理化に引き続いて1966年度(昭和41年度)以降も設備の合理化を進め」ると共に「東海製鐵の吸収合併は、1967年8月に実施され」ており「1969年度には粗鋼生産量が年間1,484万トンに達し」ていた。
この両社合わせて3千万㌧強の生産能力を持つ合併に対し、「公正取引委員会(公取委)は独占禁止法(独禁法)に違反する疑いがあるとし、翌1969年(昭和44年)5月、合併否認の勧告を行った。」結果、両社は、競合他社へ技術提供・設備、株式譲渡等を行なう「違反の排除計画を公取委に提出」した事により「1970年(昭和45年)3月31日、・・・新日鐵が発足した。」

一方、金融業界においては「金融自由化」「金融効率化」への動きが大きくなってきていた。これは、業態別垣根行政・保護船団方式行政は「昭和30年頃までにはほぼ整備を終えたが、40年の不況以降、国債発行、資本自由化の進展など、金融を取り巻く環境に変化が生じ、現行制度と実情の乖離も大きくなってきて、各種金融機関の同質化や分野調整が改めて問題となってきた」(前掲第四北越銀行レポート)ことによる。

前述、昭和40年の証券不況は日銀特融・赤字国債発行“再解禁”により乗り越えられ、昭和43年には西ドイツを抜いて世界第二位の経済大国になっていた訳であるが、国際的には、第二次大戦後のブレトンウッズ体制が崩壊して行く過程であり、それは、昭和46年8月のニクソンショックによる金・ドル交換禁止、それまでの360円/$がスミソニアン体制下における308円/$へ16.88%の切り上げと『円高時代』に入って行く前夜でもあった。

そして、この円高はその裏にある国際収支黒字化定着即ち「外為会計の巨額の払い超が持続」(前掲第四北越銀行レポート)することを意味し、また、「46年8月以降の一連のドルショックが過度の先行き不安感を生んだため、景気振興策として、財政面からの大幅なてこ入れの他、46年12月、公定歩合の0.5%引き下げが行なわれた、さらに、47年6月、国際的な金利低下を背景として、円の再切り上げ回避という目的が加わって、公定歩合は再度0.5%引下げられた結果、4.25%という戦後の実質的最低水準を記録」し、「金融市場は、46年初頭から緩和に向かい・・・記録的な超緩慢」となっていたのである。
この「超緩和」状態は、その後のオイルショック・狂乱物価による、先見、公定歩合の今度は9%までの引上げにより一旦は終息するが、戦後の「資金不足」時代に要請された業態別垣根金融・保護船団方式行政は、基本的な「資金余剰」時代への航路変針・船団再編を迫られたのである。
また、同時に、この円高・国際収支黒字時代における産業界の再編に伴い、金融業界においても必然的に再編を迫られる。

それは、この護送船団方式の理念乃至根拠は「健全経営と預金者保護」(前掲第四北越銀行レポート)・「金融システムの安定性を維持」(コトバンク)することにあり、先述、サウンドバンキングを如何に実行・敷衍させていくかにあった。
即ち、資金不足時代において、業態別に資金を吸収すると共にその資金を同業態内に貫流させることにより効率的資金運用を図ると共に、「厳しい監督と手厚い保護」(前掲第四北越銀行レポート)を与えてきたのであった。

しかし、先述、後の一勧・野村事件における“呪縛”の端緒となったのは、尼崎製鉄を吸収合併した神戸製鋼の内紛であり、その神戸製鋼が第一銀行の主要取引先であったことであり、また、証券不況の重要な契機となる山陽特殊鋼の破綻において、が新日鉄神戸銀行は同社に多額の融資をしており、その「屋台骨を揺さぶられ」(『華麗なる一族』のモデル・山陽特殊鋼住金の子会社に;週刊新潮 2019年3月14日号掲載)た。~戦前の金融恐慌において、取り付け騒ぎが生じ、その発端となった東京渡辺銀行は渡辺財閥の、また、当時、神戸製鋼を傘下に擁した鈴木商店に多額の貸し付けを行なっていた台湾銀行は、所謂機関銀行と称されたが、「戦前の三井銀行・三菱銀行・住友銀行は、長期貸出を避けて、手数料収入を中心とし、直系企業への貸出は少なく、財閥外部の優良企業への貸出が多かったので機関銀行では無かった。」(wikipedia)そして、この「1927年(昭和2年)の金融恐慌では、事業会社と機関銀行が共に破綻した。このように、企業と銀行の密接すぎる関係が金融システム不安の原因となったので[7]、この金融恐慌は「機関銀行化した金融機関の破綻」と考えられている」~この点、戦後の神戸製鋼と第一銀行、山陽特殊鋼と神戸銀行の関係は、所謂メインバンク乃至大口取引先の関係と考えられる。メインバンク・システム自体は戦後、「企業が恒常的な資金不足状態にあった高度成長期に発達した」(コトバンク)が、機関銀行が、機関銀行化した「その企業や関連する企業へ融資を集中させる・・・戦前の日本で蔓延したビジネスモデルだが、経営上は、不健全で脆弱で非効率的だと見做されている(のは)・・・リスク分散をしない」が故である。
結局、“呪縛”乃至“屋台骨”の問題となったのは、リスク・アセットレシオ乃至リスク・キャピタルレシオの問題であり、1の損失をカバーしうる100のアセットがあるか、1以上のキャピタルを有するか、サウンドバンキングに徹しているか、の問題となる。

世界第二位の経済大国となり、円高基調の下において国際競争力の涵養に迫られ、再編を進める産業界に対応し得るべく、金融界も資金力を高め、資金不足から資金余剰時代への基本的転換に対応した収益力・競争力を備えるべく、再編を迫られ・再編を進めていく必要性があったのである。~但し、未だ、この時点では、護送船団方式という枠組みの中においてではあったが

既に、「昭和38年4月、所謂『自由化通達』が発せられ、その中で、種々の規制を緩和して弾力的に金融行政を運用することが明示」(前掲第四北越銀行レポート)され、業態別預金吸収手段の要たる「店舗行政の弾力化については、398年度から40年度にかけて、店舗設置に対する認可方針が緩和」され、「45年4月から預金金利の規制緩和が行なわれ・・・4種類の区分による最高金利のみ」となった。
その後、「この様な銀行行政の理念の転換は、45年7月の金融制度調査会の・・・答申を経て・・・『効率化行政』として結実」して行き、統一経理基準導入、外為取扱の甲乙区分撤廃、海外投資銀行の設立、長短金融分離維持を前堤とした中期預金解禁、預金保険法制定等、一連の「適正な競争原理の導入と金利機能の活用」のための政策・手段が実施された。

一方、金融制度調査会では、「全面的に制度の再検討を行うことにし、・・・43年6月、所謂金融二法が成立」した。
これらは、「中小企業金融制度の整備改善のための相互銀行法・信用金法等の一部を改正する法律」と「金融機関の合併及び転換に関する法律」であり、前者は、「相互銀行、信用金庫、信用金庫を中小企業専門金融機関として位置付」る、正しく、業態別金融の枠組みにおいて、適正競争原理が導入された金融機関の相互競争が、資金余剰環境下、激化して行く中、「融資対象の拡大、融資限度の引上げを行ない、また、最低資本金を大幅に引上げ、経営基盤の強化を図ろうとしたものである。」
一方、後者は「従来、法律上の規定がなかった異種金融機関の相互の合併・転換についても規定したもの」であり、この法律により、上記「経営基盤の強化」を“迫られた相銀・信金・信組”の「中小企業金融機関の合併と転換が進み、43年6月から48年3月迄の間に同種合併48、異業種合併25、転換5を数え・・・中小金融機関の再編に大きな役割を果たし・・特に・・・44年頃までは、経営内容の悪い金融機関が・・・吸収合併される例が主流を為していたが、45年中頃からは経営基盤の安定強化を目指す積極的乃至発展的合併が増加して来」る事になり、経済大国としての国際競争力の涵養が急務であった大企業に対し、国内的にその基盤となる中小企業の競争力・経営力強化に対応しうる中小金融機関の本来的再編が進み、金融効率化、即ち「資金配分の効率性、金融機関の経営の効率性発揮による利益の顧客還元」(コトバンク)の目的の一半が進展した。

そしてそのもう一半の、大企業乃至地方有力企業向け金融に対応する都銀・地方銀行の同時代における合併こそが、先の46年10月の一勧、第一銀行と勧業銀行の合併に他ならない。
『第一・勧銀はこの合併について「第一の店舗は東京圏中心で、融資先には重化学工業が多い。一方、勧銀の店舗は地方部にも分散しており、融資先には中小製造業及び流通・運輸・小売業が多い。このため補完効果が高い・・・」とその意義を説明』(wikipedia)し『大蔵省は、「規模の利益を生かし、経営基盤の強化を図り、さらに国民経済の要請に応えることは、金融効率の趣旨にかなうもの」とこれを評価』する所となったのである。
実は、筆者は、当時大学で特別授業として、当の一勧の調査部長さんから、この「金融行政自由化・効率化行政」についての話しを聞いたのだが、部長さんが、確か勧業銀行ご出身と言う事以外は、殆ど記憶にない。
この点、同時期の新日鉄誕生についても、商法の授業で、独禁法違反の観点からの話しもあったが、これも、殆ど記憶にない。
しかし、その商法の授業の中で、TOBの話しがされた事は、鮮明に覚えている。
現在、「SBIホールディングス(SBIHD)は、傘下のSBI地銀ホールディングスと共同で(破綻した長銀の後身である)新生銀行の公開買付(TOB)を発表」(https://diamond.jp/2021.9.27 澤田聖陽)し『SBIHDは、新生銀行に対して同社が進めている「第4のメガバンク構想」の核としての役割を期待している」ようであるが、「新生銀行は事前に知らされていませんでした。新生銀行は、買収防衛策の導入を決議したほか、ホワイトナイトを探す動きもあり、実質的には敵対的TOB」となっており、「新生銀行が決議した買収防衛策は、既存株主に新株予約権を無償で割り当て、同行が予約権を強制取得する際に、一般株主には普通株を、大量買い付け者であるSBIには一定の行使制限が付いた新株予約権を交付するものです。この買収防衛策は、株主に判断を問う株主判断型と呼ばれるもので、10月以降に開催される臨時株主総会で過半数の賛同が得られると発動」されると言う。
このTOBが「導入されたのは1971年(昭和46年)で、1990年(平成2年)にほぼ現行の制度となった」が、「のちに市場内で議決権が全体の3分の1以上の株式を取得しても問題とならない、との解釈に基づき」、先述、株式分割において現物引渡しにかかる時間差を利用して自家株の連続的つり上げを図るという “規則のループホール”利用を行なった「ライブドアが東証の取引開始前の時間外取引でニッポン放送株式の29.5%を取得、グループとして発行済み株式のうち35%を保有するに至った件(2005年2月)や、村上ファンドが市場内・市場外を併用して阪神電気鉄道 株式38%を取得した件(2005年10月)などの反省から、平成17年の証券取引法改正により、市場内取引でも、ToSTNetなど証券取引所の立会外取引(時間外取引)によって、買付け後の株券等所有割合が3分の1を超えるものについては、同じく公開買付けによらなければならない」(Wikipedia)事になっている。
従って、このTOBが正に法制化された前後に、その講義を聴いていたわけであるが、教授が“熱っぽく”語られるその姿が、全く実務経験・実社会での経験がない筆者には“奇異”に感ぜられ、それが深い印象となって残っているのだが、上述からも分るように、TOB自体は、かなり“実務的”な話しである。
そもそも、TOBは“公開買付け”と訳されているものの、Take Over Bidのどの単語にも“公開”などと訳されるべき物はない。「英語圏ではTOBという略語はあまり使われない…takeover bidとフルスペルで綴られるか…bidが用いられることが多い。…またアメリカ英語では、tender offerという表現もあり、投資銀行の世界では tender offer or public tender offer」(wikipedia)と言うとされており、最後の英語の言い回しからは理解できる。~尤も、中銀の行なう公開市場操作はOpen-Market Operationであるので、Publicとの意味合いの違いも残るとは思われるが
そこで、この制度自体から、“公開”という名の付言した“理由”を考えると、「公開買付けとは、経営権の掌握等を目的にその会社の株券や資本性証券を市場外で一定期間のうちに一定価格で買い取ることを公告して取得する方法」をいい、この制度により「投資家の保護と証券取引の秩序維持のために設けられている」(wikipedia)
“経営権の掌握”を第一義として、株の大量購入を行なう際に、“一般投資家”に不利益を与えないように“公開”の場で、透明性を持って公正に行なわれる事を担保する制度、と言って良かろう。
とすれば、日本的資本主義における株式市場では、このTOB導入以前には、斯様な“精神”では、中々、“企業買収”は行なわれていなかったと言う事になろう。そこに、教授が熱意を込めてTOB制度を学生に語る真意があったのではなかろうかと今は思われる。
「白木屋乗っ取り事件」(wikioedia)で著名な横井英樹氏がいるが、SFに記述した銀投機を巡るハント一族の事件で、ハント一族の真意は、銀買い占めにより”利益“を得る事が第一義ではなく、”銀“そのものを”買う“事が目的であり、その為に、取引所がその規則を変更までしてポジションの”強制解約“をせざるを得なかった訳であるが、”戦争成金“上がり“の横井氏に対し、『白木屋の社長…は「白木屋は江戸時代から300年続く名門だ。…どこの馬の骨とも素性の明らかでない者を重役に迎え入れることは絶対にできない」と言い放った。すると横井は「私は、…血統とかは素性とかはたいしたことないかもしれない。しかし現在は資産30億円、借金20億円、差し引き10億円を持っている。たとえ私が最後の一人になっても、この資材を投げこんで、全株数を握ってみせる!」と反論した。』と言う事であり、”名門百貨店“の経営者”になりたかった故に”買占め“に走り、そのため、却って、”事件“となった如く思われる。
そして、「1954年(昭和29年)3月31日、浜町中央クラブにて白木屋の株主総会が行われた。」のだが、そこに財界人や“様々な”人々と共に現われるのが「総会屋は白木屋側は久保祐三郎を配し、横井側は田島将光を配し、総会場には2つの入り口が設けられ」たが、結局、「株主総会では決着は付かず法廷闘争まで及んだ」と言う事である。
野村證券の3代目社長奥村綱雄(1948年4月~1959年6月) 4代目社長瀬川美能留(1959年6月~1968年11月)とともに戦後の野村証券の発展に尽くし、証券界の高度成長期をリードした5代目社長北裏喜一郎(1968年11月~1978年10月)の言葉に「「野村には清冽な地下水が流れている」と言う物がある。
この“清冽な地下水”という言葉を最初に眼にしたのは、田淵前会長が日経の「私の履歴書」の中に書かれていたのが最初と記憶するが、意味は『世の中が変わって、私たちの「業」が変わっても、野村の中には、清く激しい地下水が流れているという意味です』(野村ホールディングス Citizenshipレポート 2011)との事である。
実は、日経の記事を読んだ際も、意味がよくくみ取れなかったが、この“オフィシャル”解釈を読んでも、筆者には判然としない。
「意味は、なんとなくはわかってもらえるだろうが、野村証券の清廉潔白な金や商品の流れを比喩的に例えたものだ。」(https://ameblo.jp/nakayama26yaen/;2012-01-14)というブログもあった。

閑下休題、先述、一勧においては、その総会を仕切る「3人の総会屋」(会長はなぜ自殺したか;読売新聞社会部)がいたという。
その内の一人、栗田英男氏は、「1975年には地元足利市に3万坪の敷地面積を誇る栗田美術館を開館」(wikipedia)している。
実は、もう7~8年前に、”千畳敷”と形容される見事な大藤棚を足利フラワーパークに見に行ったのだが、その帰りに伊万里焼の美術舘があるとの事で見に行った。
それが、栗田美術舘であり、学生時代から趣味で始められたという古伊万里の、それこそ東インド会社を通じて当時輸出されていたという大物の花瓶も含め、見事なコレクションが、広大な敷地の中、複数の建物に展示されてある。~その建物の一つで、古伊万里の複製・技術再生がされており、伊万里以外で、今も伊万里焼が作られている。
で、この美術舘における氏の紹介文を見たのだが、さすがに、“総会屋“との標記はなく、確か、経済研究家としてあったと記憶するが、それ以上に、‘47年の衆議院議員選挙で“田中角栄“と初当選同期の国会議員であった旨記載されていたのが印象的であった。
その故か否か、「田中角榮を呼び捨てにできる数少ない人物だった」(wikipedeia)という事であるが、議員としても「予算委員など歴任し、独占禁止法改正案(いわゆる栗田私案)を手掛け」る、と言う“経済政治的実力”もあった方の様である。
そして、「初当選。政界進出と同時に栗田政治経済研究所を設立し…’49年の総選挙で落選し、自らの事業の傍ら、財閥解体の混乱に乗じてプロ株主活動を本格化」させたとの事であるが、その総会屋としての活動は「政界で培った演説の巧みさは常に一目置かれ…財務省表等を詳細に分析し…正攻法で攻め…おおらかな人柄と大物然とした態度に惹かれる企業の経営者も少なくなく…与党総会屋として頼る企業も多かった」(前掲読売)と言う事であり、一勧も、その内の一つの企業であったと言う事である。

今一人の総会屋は、その「世界でも『一代の風雲児』と呼ばれ、…自分の発言で総会を仕切る事にのみ、男のロマンを感じる…理論派で企業の舞台裏を知り尽く」していたのに対し、最後の一人は、「唯一の武闘派」であり、その「グループは結束が固く…株主総会では乱闘騒ぎなども起こすことから、各企業から驚異と取られ…年間10億円以上が…『賛助金』などとして流れ込んでいた」と言う。

そして、一勧・野村事件における主役である小池氏は、「68年頃…総会屋に弟子入り」し、この“武闘派”の「一員として(総会屋)行動を共にする」が、「82年10月に商法が改正され(た)…頃、四大証券の株主総会を取り仕切っていた…武闘派とは一線を画し、企業を守る与党総会屋の代表格…の下で、与党総会屋としての手法を学んだ」(前掲読売)
しかし、前述、小池氏が、この商法改正後「残された道は、株をやって合法的に儲けることだけだ」と語り、85、6年頃「なぜ、そんなに株ばかりやっているのか」と尋ねられたおり、「僕には恩のある人がいて、その人が株を盛んに勧めるんだ」と言った人物こそ、一勧合併時の会長・社長であり行内で「神様」と呼ばれていた二人が、例え役員会の最中であれ中座して接遇していた出版社社長であった。~先述、後の一勧・野村事件における“呪縛”の端緒となったのは、尼崎製鉄を吸収合併した神戸製鋼の内紛であり、その神戸製鋼が第一銀行の主要取引先であった旨記載していたが、この神戸製鋼の内紛を解決したのが、この社長であった。
そして、この事が何故、“呪縛”となっていったかについては、前掲「会長はなぜ自殺したか;読売新聞社会部」を読んでも、実は、判然としない面もあるのだが、‘69年元日の読売新聞のスクープ「三菱、第一銀行が合併」との報道に対し、これを是としない一勧の神様の一人である初代同会長・当時第一銀行(代表権なし)会長が、反対運動の一環として「特殊株主、つまり第一銀行に大きな影響力を持っていた総会屋…たちへの説得は(会長の)意を体した(この社長)が行なった」事にあるとされる。

第一・三菱の合併構想は、第一銀行「創始者・渋沢栄一の実子*」長谷川重三郎氏と、先述山一証券への日銀特融決定の場に参列していた三菱銀行田実渉氏の両頭取間で合意に達し、特に三菱サイドでは「すでに常務会どころか取締役会でも合併は了承済みで、合併の調印の日付まで決まっていた」と「当時、読売新聞経済部次長は…証言している」と記載されている。
*余談だが、渋沢栄一の“実子”と書かれてあり、時代感覚から奇異に思われ、Netで調べると「育った子供が7人いました」とか「2人の妻との間に7人の子供に恵まれ」た、等“7人”説が多数の様であるが、『NHK大河ドラマの今年の主人公(は)渋沢栄一だ。明治維新後、500以上の会社の設立や育成に関わり「日本の資本主義の父」と呼ばれる。渋沢が一生懸命につくったのは会社だけではない。子どもの数も、非嫡出子を含めると20人近いともいわれる。』(https://www.sanin-chuo.co.jp/2021/4/10)とあり、「そんな子どもの一人で、前回東京五輪の数年後に当時の第一銀行の頭取になった長谷川重三郎は1908年生まれ。計算してみると、渋沢が68歳の時の子どもになる。」と書かれており、69年の合併構想時は氏は61歳であり、栄一壮年次とは3世代程度の違いがあり、納得が行った次第である。
この山陰中央新報のブログでは続けて「『論語と算盤』に代表されるように、経済と道徳の両立を説いた渋沢だが、女性関係は別で、自ら『明眸皓歯に関することを除いては、俯仰天地に愧じることなし』と広言した」という事であり、『とても真似(まね)できそうにない(が)渋沢に倣い「大金持ちの子だくさん」を目指す起業家が増えれば、経済が活性化するのはもちろん、少子化の流れも少しは緩和される』のではと、日本の現在の“潜在成長率の低さ”を “非経済的”観点から嘆息してある!?

この三菱との合併構想が、後の一勧初代会長から強烈な反発を招いたのは「第一銀行は第二次大戦中に三井銀行と合併して帝国銀行となったものの、両行の業務・企業文化の違いから再分裂したという苦い経験を持っていた」(wikipedia)ため「財閥系銀行との合併にアレルギーを示す人間が多く」いた事や「第一銀行が資本金で1.5倍近い三菱銀行と合併するとなれば、事実上の吸収合併である事が否定できない」(前掲読売)からだったと言われる。
しかし、第一銀行自体に、金融効率化が喧伝されるなか合併等に対する意欲がなかったかと言えば「‘48年に…新帝国銀行(後の三井銀行)に分かれることになった(が)…いざ分離してみると昔のトップバンクという地位に憧れる人間たちが増えてきて、合併に向けたムードが再び高まってきた」のである。
そこで、長谷川頭取が「機未だ熟さず」として合併断念を発表し、同時に辞任した後、第一銀行の頭取に返り咲いた一勧初代会長は、「その年69年秋頃から日本勧業銀行…と合併交渉を始め、71年3月、ついに調印に持ち込んだ…日本最大の銀行」が、正式に合併した、先述、71年・昭和46年の10月に誕生したのである。

この合併は、先述、大蔵省に“金融効率の趣旨”に適うと評価され、『一勧以降の東京三菱銀行まで5件の都市銀行同士の合併と比較すると、いずれも合併コスト増大が資金調達コストの低減を上回っているのに対し、一勧は唯一コスト削減に成功しており、合併が効果的に働いていることがわかる。…(辛口批評で知られる)佐高信はバブル崩壊以降、都市銀行の不良債権問題に際し、「第一勧銀の不良債権比率が低いのは、旧行出身者による互いのチェック・アンド・バランスが働いているため」と分析』(wikipedia)しており、評価された側面も多い。

しかし、「第一銀行には三井銀行との合併で苦い思い出があり、三菱との合併問題も行内を揺るがす大事件となった。このため、…合併交渉をするに当たって最も注意を払ったのは、合併後(両者を)…対等に扱う」(前掲読売)という事であり『非財閥系である勧銀との合併後もいわゆる「たすきがけ人事」や頭取の「順送り(第一・勧銀交互に選出)」が行われ、人事部も旧第一・旧勧銀で別々に置かれた。しかし、こういった人事は旧第一(D)・旧勧銀出身者(K)の対立を生んでしまって両者の融合が進まず』、このため「合併から20年を経た1991年3月期決算では、業務純益で都市銀行首位となったこともある。」ものの、「その収益性は富士・住友・三和・三菱などの他の上位都銀に比べると(一概に)低いものであった」(wikipedia)とも言われる。

この「対等主義」は、ある意味徹底したものであり、新銀行の「本店については、当初、10年程は…第一銀行の本店に置く」(前掲読売)事とするも、「その後、…(勧銀の)土地に新本店を建てる」事にしてあった。
そして、その土地が経緯上、かの社長の口利きに頼ったことから、本来、この社長との関係は第一銀行のものであったにも関わらず、勧銀との関係も生じ、前述「本店に二つあった名誉会長室に、(この社長が)フリーパス」になったのではないかとも言われ「検証するのは難しい」が「多くの一勧幹部がこうした話しを信じている事だけは間違いのない事実」であると言う事になったという事である。

所で、この一勧合併と同時代、1973年に神戸銀行と太陽銀行が合併して太陽神戸銀行が誕生した。
前述、神戸銀行は山陽特殊鋼に多額の融資をしており、その「屋台骨を揺さぶられ」たのであるが、何故『華麗なる一族』のモデルとなったかについては、原作者の『山崎(豊子)は本作の執筆にあたり、(前掲)三菱銀行頭取の田実渉から取材を行った。その中で「三菱、第一銀行の合併話の始まりから、破談に至るまでの経緯」を取材して本作執筆の参考』(wikipedia)としたとされる。
田実氏は、適わなかった合併について話しをされたのであろうが、実は、一勧合併に当たっては、「神戸銀行が加わる計画もあった」が、理由は判然としないが「同行は離脱、翌
々年に太陽銀行と合併し太陽神戸銀行が発足」する事になったと言う。

この神戸銀行と山陽特殊鋼は、『華麗なる一族』の中では“阪神銀行”と“阪神特殊鋼”の名前で現われ、“万俵コンチェルン”の傘下企業とされているが、山陽特殊鋼も「戦時中までは(1936年、7行が新設合併し神戸銀行として発足した際の中核である神戸岡崎銀行の)岡崎家によって経営」(wikipedia)されていたが、「終戦後、元特高警察の荻野一が乗っ取り同然に経営権」(前掲週刊新潮)を奪ったという。~ちなみにこの人物が“万俵大介”のモデルであり、後に再生を図った同社の専務が「小説では、ここで万俵鉄平が死んでしまうのだが、そのモデル」と言う事の様である。

従って、神戸銀行と山陽特殊鋼の関係は、“岡崎財閥”傘下の同族企業でもなく、機関銀行とも言えなくなっていたが、前述『利益なき繁栄』と表現された過剰設備投資、「資本金の3倍を超える最新設備を導入し、急な膨張策」(前掲週刊新潮)により山陽特殊鋼が倒産した際には、“メインバンク”的に「巨額の融資をしていた」ため、「屋台骨を揺さぶられ」る事になった。
そこで、神戸銀行の「2代目頭取に就任し以後20年間頭取を務めた…岡崎忠は神戸出身の元大蔵次官石野信一に後身を懇願、3代目頭取に就任した。」(wikipedia)
一方、「石野の大蔵省時代の先輩でやはり大蔵次官を経験していた河野一之は、関東地方を基盤に発展し、相互銀行ながら既に都市銀行並みの規模に肥大化していた日本相互銀行の社長に就任し、1968年(昭和43年)に都市銀行・太陽銀行に転換した。」~この河野氏の社長就任は『旧友の池田勇人総理大臣が日本長期信用銀行副頭取に天下りしていた河野に社長就任を要請したことに端を発す。長銀の副頭取から日本相互銀行社長に転職では役不足だったが、池田が河野に「普通銀行に転換すれば預金量からいっても即日、都市銀行になる。すぐに法律を作らせる」と口説き、当時の大蔵事務次官・石野信一に「合転法」を作らせた』(wikipedia)とある。この「合転法」とは、前述の「金融機関の合併及び転換に関する法律」の事であり、表向きの金融制度調査会の答申とは別途、裏話としてかかる事もあったのかと不可思議に思われる次第であるが、事実、「適用第一号も同行であった」。
この結果、都銀は15行を数える事になる。~富士・三菱・三井・住友の旧財閥系大手。外為銀行である東銀。第一、勧銀、三和、大和、東海の中位行。協和、埼玉、拓銀、太陽、神戸の“地方”都銀、の15行である。~「その頃の金融界は15の都市銀行が乱立し、大蔵省や日銀も、規模のメリットを生かすために大型合併を進めるよう各行に働きかけ」(前掲読売)ざるを得ない状態、本来の金融効率化を進めざるを得ない状態になったのである。
そこで、先の「かつて先輩後輩の仲であった河野と石野との“トップ会談”により、神戸銀行は太陽銀行と合併する」(Wikipedia)ことになった。~しかし、「頭取人事については1990年に三井銀行と合併するまで、内部昇格は行われず大蔵省出身者が歴代就任」する事になったが、“誕生秘話”からすれば、不可思議ではない、と言う事になると思われる。
閑下休題、かかる事情・経緯・環境の下に発足した一一勧においてこの社長が、役員会中途においてもフリーパスで“神様”二人に自由に面会できる様になるのも「82年の商法改正後、(先述3人の総会屋の)大物たちが引退したり、力を失い始め」(前掲読売)てからであったように、小池隆一氏が一勧に対し”自身の影響力“持ち始めるのは、88年の第三代会長・頭取から第4代の会長と宮崎頭取に交代する株主総会の時からだったようで、この「年の株主総会は、小池たちが出席してくれたお陰で何とか平穏におさまった。あの頃を境に、小池や、その親分格だった社長がうちの銀行に対し絶対的な影響力を持ち出した」との事であり、一勧サイドのトップが交代していくと共に、”呪縛“の連鎖が続いて行った。
そして、この翌年89年に先の4大証券の株30万株づつの購入資金31億円の融資が小池側に行なわれるのだが、先述、「小池に対する不正融資は85/3月から始まっていた」訳であり、この社長が「あるとき、“株や不動産をやるので口座はないか”というから弟の会社(小甚ビルディング)を紹介してあげたんです…後に判明するが第一勧銀はこの口座を通じて(この社長)に巨額の資金を融通して」(前掲、週刊新潮)おり、ために、「(一勧の後身の)みずほ銀行が、私に損害賠償の訴訟を起こしたけど、結局、私の受け取った金じゃないことが分かって請求も退けられ」たのであろう。
先述、小池氏は「四大証券の株主総会を取り仕切っていた企業を守る与党総会屋の代表格の下」で修行していた旨記述していたが、この繋がりは、むしろ、ある総会荒らし事件での釈放祝いに白百合の花束を贈ってきたのが、その人物で、「お礼を言ったら“白百合の花言葉知っているか?”って。“清廉潔白だよ”と言う。単なる金目当てで暴れたんじゃないのは分かっているというメッセージだった。若いのに骨のある奴だと思ったのでしょう…以後、…私淑する」ようになった、と先の週間新潮で自ら語っている。
そして、この“代表格”は先の“社長”とも懇意であった事から、この社長は代表格の「事務所に出入りしていた小池の才能に早くから目をつけ…出版社社長としての“表の政界”に(対し)…自分の影として働く存在に小池を育てよう」(前掲読売)とし、こうして、小池氏は、この社長の「知遇を得て、第一勧銀や証券4者を始めとする主要企業の役員らとの関係を広げ」る事が出来たと言う事である~表の世界と裏の世界の“呪縛”が繫がって行く訳である。
しかし、結果的に小池氏に流れたのは、この社長等に実質的に流れていたものも含め、先述、総額460億円とされている。
先の住友銀行で闇に消えたとされる金額よりは1桁違うのである。また、先の栗田美術館は75年に「開舘したが、これらの趣味に投じた私財は、当時500億円とも言われた」(wikipedia)とされており、時代を考えれば、やはり“小池”事件の“絶対的金額”の巨額さは別途、“相対的”金の流れは、“大河”事件とは言いにくいのでは思われる。

では、何故、“元総会家”の起こした金融スキャンダルが「「経済の55年体制とでも呼ぶべきものだ」とまで言われたのは、証券トップの野村證券で発覚した利益供与事件が、都銀トップ行である一勧に連鎖し、金融行政の本丸・戦後における官庁トップの大蔵省にまで“連鎖”したからに他ならない~行政指導の“呪縛”が露呈したからに他ならないと考える。

先の週間新潮の末尾には『「あの事件は、時代が大きく変わる節目になってしまいました。私(小池)は、その責めを受ける役目だったのだと思う。でも、オリンパス事件に東芝の不正会計事件と、最近の経営者のモラルは昔より酷い」
「総会屋」は死なず、ただ消え去るのみ。だが、小池氏の言葉を嗤える者はいない。』
とある。

結局、融資には売掛-買掛期間差見合いの売上実現までの運転資金と期間毎実現収益を償還財源とする設備資金しか基本的に無いわけであり、株式投機等運用資金は自己資金が原則である。~かのピケットが主張するようにi>gとし、g≒投資収益率≒売上高利益率とみれば、本来売上高比100%の運転資金融資や設備資金融資もあり得ず、何等かの自己資金が本来必要となる。また、この事はiが幾ら低くてもgがそれ以上に低ければ、“貸出”伸びない事を意味する。現下の低“潜在成長率”の下で、“期待インフレ率”の上昇が声高に叫ばれる由縁でもある。~一方、gが高ければiも高く“出来る”、所謂“十一“が成り立つ由縁である。しかし、E(g)は所詮gに落ち着く。ただし、貸し手は、サウンド・バンキングと違い、1の損失に対し10貸増せば”商売“は(尤も、年率365%では、当然でもあるが)成り立つ。また、煩瑣な法的手段でなく”簡便“な取り立てに訴えれば、貸増度合の必要性も小さくなる。~更に、”十一“が成り立つのは、”一時凌ぎ“の資金繰りの場合もあるが、この場合、大体において”一時凌ぎ“に終らず、結果的に、”常習”となり、所謂“骨”までしゃぶられる事になる。~正しく、かかる“赤字”に陥る場合において、“メインバンク”として、その企業の将来収益性に基づき“再建支援”“財務構成見直し”を行なうべきでシュチュエーションであるわけであり、この様な意味合いからも、金融が経済の血液と呼ばれ、銀行の“公共性”が問われ、従って、銀行に対する信頼を確保する行政当局の監督権限、責任があるはずのものであった。

従って、4大証券株購入資金が、元々、“焦げ付きやすい”貸出しであったものの、ほぼバブル全盛期に買われたものから、バブル崩壊に伴い、不良債権化するのは当然であり、小池氏には、また、「ゴルフ場開発」(前掲読売)絡み資金もあったようであり、“実態”のないものが不良債権となるのも当然であった。~ここで、総額460億円と言われる貸出金の一体幾らが不良債権化していたか、と言う事が、前掲読売や他の情報を見る限りにおいては、判然としない事である。“再建計画”を作るにしろ“債権放棄”をするにしろ、その金額を把握してない限り、全く前に進めない。“融資”としての管理が全くされていなかった、いや、管理はされていたが、元々が“神様”がらみで、事務担当レベルの“権限”では如何ともしがたかったのではないかと思われる。

筆者も、所謂MOF検や日銀検査は何度か対応したが、基本、“赤字”資金であっても、先述、当該企業の“状況”を“合理的に説明”し得れば“分類”上も相応の評定となる。

結局、一勧は、小池氏に対する“融資“を検査対象外とするべく”迂回融資“に走った訳であるが、いずれ金の流れを追えば~追う権限・意志があれば~明るみに出る話であった。

この「大蔵省接待汚職事件」(Wikipedia)は、所謂、「ノーパンしゃぶしゃぶ事件」とも言われ「第一勧業銀行総会屋利益供与事件における、大蔵省の検査の甘さが総会屋への焦げ付き融資拡大になった問題が浮上したことがきっかけ」となり、「官僚7人(大蔵省4人、大蔵省出身の証券取引等監視委員会の委員1人、日本銀行1人、大蔵省OBの公団理事)の逮捕・起訴に発展」した。
それら、各件の「概要」は、1998年
「1月18日、東京地方検察庁特別捜査部は日本道路公団の外債発行幹事証券会社の選定に際し、野村證券から贈賄があったとして、公団経理担当理事(大蔵省OB)と、野村證券の元副社長らを贈収賄罪の容疑で逮捕」
「1月26日、東京地検特捜部はあさひ銀行・第一勧業銀行・三和銀行・北海道拓殖銀行から収賄を受け検査日程を漏らしていたとして、大蔵省検査官2名を逮捕」
「3月5日、東京地検特捜部は、大蔵官僚2名を野村証券への便宜供与と収賄にて逮捕
「3月11日、東京地検特捜部は日本興業銀行・三和銀行から収賄を受け機密情報を流出させたとして、日本銀行証券課長を逮捕」
と言う、芋づる式の逮捕であったが、それは、それらの事件の“根”が一緒と言う事でもあった。

この事件においては、大蔵の現役キャリア官僚が訴追されたのであるが、直ちに懲戒免職とはならず、一時、「休職扱いにした時、・・・同省幹部(は)・・・こう説明した。『大蔵省としては・・・逮捕は納得しかねる・・・彼はごく当たり前のキャリア職員で、・・・接待を受けるのも・・・当たり前だったのだから』」(前掲読売)と述べたとある。
しかし、大蔵省は、すでに「95年5月25日、二信組事件で元主計局次長の中島義雄らの過剰接待問題が発覚した事を受け・・・、≪職務上の関係者はもちろん、それ以外の者からも、会食等への招待には原則として応じないこと≫」等の通達を出していたのであるから、「多くの幹部や職員にとって通達など紙切れに過ぎなかった」という事になる。

ここの二信組事件での過剰接待問題では、刑事事件までには発展せず「95年7月、中島氏は辞表を提出」(週刊新潮 2016年3月3日号)したのであるが、“キャリア官僚”が、この様な接待・招待を受ける“動機”“理由”として、「私は30代のころから積極的に異業種交流会に参加していました。楽しいからってわけじゃない。業界の本音が聞けるからです。イ・アイ・イ・インターナショナルの高橋治則(東京協和信組理事長)さんとも親しかったけど、高級料亭で会うのは2カ月に1度ぐらい。それに、夜9時になったら切り上げて職場に戻っていたんです。ノーパンしゃぶしゃぶ?行ってませんよ」と答えられている。
実は、前掲の読売の書の末尾には、このキャリア官僚がH5年に欧州へ出張された折に接待をした人達の名前が、検察の冒頭陳述書から引用されているのだが、その中には、筆者が80年代後期に“お世話”になった方の名前もある。
“オ・モ・テ・ナ・シ”は特殊日本語だが、Break-fast Meetingと言われるように、外資系・外国でも“接待”“招待”は普通にあり、3martini-Lunchはheavyだが、dinnerでの接待も通常であり、 “高尚”であれば音楽会やMajor参観へのお誘いもある。また、ご“自宅”への、家族ぐるみのお誘いもあったのである。
洋の東西を問わず、“懇親”により、互いの信頼を深め、“商売”をスムースにしようとする事は何等問題がない、筈のものである。

要は、何を持って“過剰”となし、如何なる“原則”で“接待”を固辞するかの“常識”の有り様が問われる、と言う事である。
現に、このキャリア官僚は「野村は、株式公開を希望している企業を指導したり,情報提供をしたりしていたが、手数料は受け取れないことになっていた」(前掲読売)のに、「独断で…引受業務に付随する業務と言う位置付けで・・・手数料を徴収・・・することは差し支えない」と92年6月に答え、これにより、「他社に先んじ・・・野村は160百万円の手数料を稼いだ」とされるのだが、法廷では「便宜供与は一切していない」と「陳述している」。
そして、ここで「独断」と前掲読売に記述されているのは、実は、同趣旨の行為を「96年3月の通達」で認めたからであり、その間の野村の“独占利益”が上述の金額であったと言う事になる。~尤も、他社がこの間、この種利益を挙げていなかった否かは、少なくとも同書からは、全くの不分明であるが。

しかし、そもそも、この“答え”が、法的に“有効”なのか否か,と言う事が同書では論点・問題とされていない。

「独断」でとか「上司に相談することもなく」との記述はあるが、この「口頭による行政指導」は“有効”であったと考える。
何故なら、この“口頭指導”そのものが接待に対応する“便宜供与”(の1つ)として“収賄罪”が成立しているからであり、もし“無効”とすれば、野村の上げた“利益”は不法乃至不当利益となり“便宜供与”そのものが無い事になるからである。
この点、この“答え”から4年後に「通達」が出されている訳であるが、その出状された経緯が同書には記述されていないので、何故、通達されたのか不分明であるが、“口頭指導”を追認した、という事は否めないと思う。
何故なら、この「通達」により、“答え”同様、「全証券会社にこれを認めた」(前掲読売)訳であり、「独断」でとか「上司に相談することもなく」答えた事に対し「ごく当たり前のキャリア職員」であった訳であり、格別、“独断専行”により、今の言葉で言えばコンプライアンス違反を理由に、内部的処分を受けた、という経緯もないからである。~今回総選挙に出馬せず政界引退を表明した元検察官である山尾志桜里衆院議員が、昨年2月10日に高検検事長の定年延長に関し、“法適用違反”を糾問したのに対し、政府側が13日時点で“解釈変更”をしていた事を表明した件において、「法務省は21日、衆院予算委理事会に対して、法解釈変更の決裁を公文書ではなく口頭で行ったと報告した。これでは変更した日時を証明できない。」(2020/2/24 05:00 https://www.sankei.com/)と、通常は政権より報道で知られる産経から批判を受けている。
“口頭”で“現在”でも通用しているのである。

一方、Non-Action Letterと言う言葉がある。これは「民間企業が新たな事業活動などについて合法性を行政庁に事前に文書で確認できる制度」(https://eow.alc.co.jp/)のことである。
筆者が、このNALについて知ったのは、80年代始め、外資系に言われてであるが、その内容・その取引については記憶がないが、“安心”して売買取引できるものである旨の根拠として説明を受けた。
当時は、所謂様々な“新商品”が出回っていた時期であるために“法的適法性”を担保する為の制度として“米国”にあった訳であるが、このNALと言う言葉を聞いたときには、この言葉自体からは何を意味するかは、全く、分らなかった覚えがある。
文字通り直訳すれば「不行為状」であるが、先述、言葉には、その言葉の属する文化による" culturally significant“な意味合いがあり、逐語訳では意味不明となる。

結局、日本的文化では、グレーゾーンについては、行政側の”白“と言う判断が必要であるのに対し,米国的文化では、行政側から”黒“ではないという言質を取る、と言う事になり、所謂、Positive ListとNegative Listの違い、と言う事が言えようかと考える。

この「口頭による行政指導」が記述されている前掲読売における本の節は「裁量という名の権力」と題されているが、従前は“白”とはされていなかったグレーゾーンが、“確たる根拠”も為しに、「裁量」で、しかも「口頭」で“白”となってしまうのである。

しかし、55年体制は、93年8月の細川連立内閣の成立により既に崩壊し、“経済的55年体制”の象徴である護送船団方式も、2年後の95年、前述、護送船団中の特務艦とも言える住専が破綻する共に、「東の東京相和、西の兵庫銀行」と言われた兵庫銀行が8月に、戦後初めて“銀行”として経営破綻し、その崩壊の端緒が既に発生していた。
この兵庫乃至東京相和は、その起源は所謂無尽であり、昭和51年制定の相互銀行法により相互銀行となっていたものが、前述昭和43年の“合転法”に基づく89年の相互銀行89行の一斉転換により銀行、第二地銀となっていたものであった。
ちなみに、相互銀行は92年に東邦相互銀行が伊予銀行へ吸収されたことにより、皆無となり、相互銀行法自体が廃止されいる。
そして、前述、97年における護送船団の本丸である都銀の一角、拓銀が破綻、翌、98年には長銀・日債銀が続いて経営破綻し、護送船団方式は壊滅した。

この間の経緯は、財務政策研究所が、業態別金融制度という「各業態を強固に区切ったうえで収益性(利害)のバランスを保ちつつ、高成長下で需要される膨大な資金を種類ごとに専門の業態に供給させる、という戦後の金融制度の基本原則」は『金融機関経営の健全性と公共性の確保、破綻の予防を通じ金融システムの安定を維持する目的で、「箸の上げ下ろしまで」と形容された裁量的で詳細な行政指導の体系が形作られ、しばしば「護送船団」方式と呼ばれ・・・公共性の観点とともに、金融機関が競争制限によって余裕ある経営を保つよう、そして過大なリスクを負わないよう、事前に行動規制を加えるものであった。法的根拠が必ずしも明確でない行政指導の有効性は、金融機関の規模拡大競争を、店舗行政を中心として制限するメカニズムによって保たれてきた。しかし、経済の高成長の終わりとともに店舗拡大競争自体が過去のものになり、裁量的かつ詳細な行政指導の有効性は失われた」(www.mof.go.jp/pri/publication/policy.../h1.../6_2.pdf)と自ら総括している通りの事であった。

但し、一勧において、代々引き継がれた“呪縛”が残ったように、大蔵省において、裁量行政・行政指導と表裏一体であった「接待を受けるのも・・・当たり前」だった慣行が、護送船団方式が破綻する事に伴い、表面化した・事件化したと言う事になったのだと考える。

既に見たように、橋本政権が成立した時には、財政再建・行政改革が政治的争点となっており、財政再建・行政改革会議が発足、議論が進められていたが、この大蔵不祥事を受け、「金融と財政の分離」の方針の下、1998年(平成10)6月金融監督庁が新設され、また、前述S&L Crisisで見たように、99年に“Glass-Steagall”法が規定する“銀・証”分離が米国で撤廃される動きに合わせ、同年には、日本版金融ビッグバンの一環として金融持株会社の設立が解禁された。

これを受けて、護送船団方式を受けた金融効率化・国債競争力強化に関わる“合転法”の元において、71年の一勧・73年の太陽神戸以降、“高度成長・安定成長時代”には、都銀の合併には進捗がなかったが、バブル崩壊後における90年のさくら・91年の埼玉共和を第二波とすれば、2.5波としての95年の東京・三菱と、基盤強化型合併の後に、00みずほ01年住友三井・02年UFJ・03年りそなと、漸う、現在の4メガバンクへの再編がなされた。

そして、従来の行政指導型も、行政改革会議の議論が結実した00年7月の中央省庁再編と共に、金融疔へと一新された事により、Non Action letterが「法令適用事前確認手続」という“日本語”の下に、「平成13年7月16日より実施」されている。

この間の経緯についても、先の“大銀行”財務政策研究所は、「個別の銀行等が破綻に直面した段階の事後的処置は、ほとんど救済合併によって行われ、金融システムの高度な安定が保たれてきた。しかし、バブル崩壊後、全体としての金融機関経営の悪化が進行し、昭和金融恐慌、戦後初期の金融機関再建整備以来久しく経験しなかった深刻な金融システム危機に、日本は直面することになった。規模拡大のメリットも余力も無くなって、救済を引き受ける金融機関が現れないために、従来の合併による処置は通用しなくなり、困難を極めた個別の試行錯誤の過程ののち、金融機関の破綻処理の各種制度が整備されていき、かつてとは大きく異なる体制に移行し、・・・平成6 年度まで(1990年代前半)は、中小金融機関で幾つかの破綻が発生し、当初は従来型の救済合併処理を追求したものの、次第に困難になっていった時期で、・・・1990年代後半以降(は)・・・金融機関の自己資本の毀損が著しく進行し、北海道拓殖銀行、山一證券(平成9 年)、日本長期信用銀行、日本債券信用銀行(平成10年)など大手機関の破綻も発生する危機的状態に直面した。(結果)破綻処理、公的資金投入、不良債権処理が切迫した問題となって、制度が整備されていく。
この時期の当初の金融行政の中心的な課題は規制緩和、自由化、そして金融制度改革であり、それに不良債権処理、金融機関破綻処理、金融システム安定化という課題が加わり、次第に緊迫を増していくという経過をたどった。
この期間を通じて、第2 次臨時行政改革推進審議会(第2 次行革審、昭和62年設置)、
第3 次臨時行政改革推進審議会(第3 次行革審、平成3 年)、行政改革委員会(平成6
年)、行政改革会議(平成7 年)、行政改革推進本部規制緩和委員会(平成10年)と、
規制緩和は一貫して政府の方針であり、自由化・規制緩和の考え方の影響と圧力も強
かった。この背景と、高度成長期型金融システムの条件の終焉といえる現実の下で、金融行政の自由化が進められ、1990年代前半には金融制度改革(業務分野規制緩和)が最大の課題であった。自由化の系列を継ぐのが金融システム改革(日本版ビッグバン)であるが、これは、混迷・停滞し国際競争力が低下しつつあった日本の金融システムを強化しなければならないという危機感が大きな要素になっていた。
金融システム安定化に向けた制度の導入を試みるに当たっても、旧来の行政手法が現実にとり得なくなったという側面とともに、あらゆる規制・介入・強制は自由化に反するという思考が影響を与えた時期でもあった。必要な行政の原則と手法はどのようなものであるべきかということも新たに整理されねばならなかったのである」と述べてある。
しかし、これらの金融再編・ビッグバンは、一人日本の経済構造の変遷変化・バブル崩壊・旧来乃至高度経済成長対応型金融行政の陳腐化の為に起きたと言う事ではなく、金融グローバル化・所謂新資本主義乃至Greedy CapitalismまたGlass-Steagall廃止に象徴される規制緩和、そして、その前面にある先述S&L危機・アジア金融危機・ロシア危機・ITバブル崩壊並リーマンショックと言う幾多の経済金融事象を背景にした国際的金融構造の変化の一環として生じた、と言う事が看過されてはならない。
次表はIFRというユーロ市場に係る専門誌の‘90年起債引受けランキングであるが、左端が、所謂トップレフトというリードマネージャ・主幹事のランキング。中央がコー・マネージャー・共同幹事としてのランキング、そして右欄がこれら二つを合わせた総合ランキングとなっている。

ランキング表(本文の下、表及びグラフから参照)

この90年という年において、栄えあるトップレフト・ランキングの首位を占めたのは野村證券であった。
筆者が、正しくLondonに駐在していた時であり、その当時は、所謂サイニングに出席するのが、一日に昼夜と二回になることも珍しくはなかった。
バブル全盛を受け、日系企業のEquity Warrant債の発行が止むことがなかったからである。
しかし、当時においての幹事を引受けを巡る所謂Mandate合戦は熾烈を極めており、1BP、即ち1/100%高ければ発行体からの引受けは不可能であり、方や1BP低ければ投資家サイドからの需要はなく、正しく1BPを巡る競争市場であった。

そのような競争の中にあり、筆者は、いずれユーロ債市場においては、多くても100社程度、Selected Dozenとなる可能性があり、早急な競争力強化・戦力充実が必要だとの趣旨の提言を本社に行なった事がある。

結局、そのような意味での“淘汰”は行なわれなかったが、上記の規制緩和・経済危機・各種バブルの崩壊の中でユーロ市場を巡る國際的金融機関の再編が行なわれたのである。

野村に次ぐ2位を占めたCSFBは、元々78年にスイス三大銀行の一つであるCredit Swissと米国名門Investment BankであるFirst Bostonとの合弁企業として設立されていたが、FBがjunkbond市場の崩壊にともない実質破綻した際に、CSが90年にFBを買収した事により、実質CSの証券部門の一部となり、06年にFBの呼称部分も削除されてしまった。~このCSによるFBの買収は、当時、まだ廃止されていなかったGlass Steagall法に反する物ではあったが、FRBは“The Integrity of the Financial Markets was better served”として容認した(Wikipedia)とされる。
一方、同4位にランクされているスイス三大銀行のもう一つUBSは14位にランクされているCity本拠地英国屈指の名門Merchant bankであるS・G・Warburgを95に買収すると共に、もう一つの三大銀行であり10位にランクしているSBCを98年に買収し、スイスにおける三大銀行制は消失した。

この点、同じ独三大銀行の一つとして3位にランクされているドイツ銀行は、98年に23位にランクされている米国8位のBankersTrustを、99年には15位にランクされている仏Credit Lyonnaisを買収する勢いを見せ、欧州最強の“投資銀行”とまで言われた。しかし、リーマン・ショック以降は苦境に陥り、09年に同じ三大銀行同志である26位にランクされているDresdner銀行を買収したランキングでは下位の30位にあるCommerz銀行との合併交渉が、一時、為されるまでもの状態に陥いったが、辛うじて、独一強銀行体制とはなり得ず乃至ならずに存続し得ている様である。
また、仏系では、6位にランクしているParibasが一頭地を抜いた國際的活躍をしていたが、00年に大手商業銀行であるBNPと合併している。
この仏系においては、このランキングでは47位と下位にあったCredit Agricoleが、96年にIndoSwezuを買収し國際的投資銀行活動を積極化させ、先のCreditLyonnaisを03年にドイツ銀行から仏系として“買い戻し”、04年からはCalyonとして事業展開している。

そして、米系Investment Bankでは、ランク筆頭5位に位置したJPMorganは、96年にChemical銀行によって実質買収されたNY二大銀行であったChase Manhattanと00年に合併、JPMorgan Chaseとなった後、米5大証券の一角であったBear SternsをSubprime Loan危機後の08年に救済買収している。

所で、この“Bear”は弱気相場を意味するが、これに対し強気相場を意味する”Bull”を商標とした同じ5大証券であったランク7位のMerrill Lynchは、同じSubprime Shockにより09年にBank of Americaに救済買収された。~しかし、このBOAは、名前は同一であるが、サンフランシスコの二大名物ビルである三角ビルと並立するビルを本店とした旧BOAではなく、ロシア危機後の98年にNorth CarolinaのCharlotteを本拠地とするNationsBankに吸収合併された後、名称がBOAとされた新生BOAであり、先のJPMorgan Chaseに次ぐ米最大の銀行となっている。~このNationsBankの源流は、19世紀後半・20世紀初頭にCharlotteで設立された二つの銀行に遡ることが出来る様であるが、当初は、NYの大手銀行の進出策に対抗するために防衛的積極的合併策を74年から取り始め、88年には“the largest FDIC bank failure in history”(Wikipedia)と言われる言われるテキ移されているサスの銀行をFDICから買取り、翌89年から92年に掛けて200以上の“thrifts and community bank”を吸収することにより拡大を続けたという。そして、これらの買収の際FDICが“assuming most of the loan portfolios and absorbing mark-to-market losses”と言う優遇を行なった為に、NationsBankの拡大が成功していった基になったとされる。~旧BOAは86~87年に掛けての第三世界・就中、ラテンアメリカのローン債務Defaultにより多大の損失を蒙っていた。この時は、筆者の本体も対応した劣後ローン等資本増強策により持ち直していたが、98年に至って、ロシア危機により62B$と言う損失を蒙るにいたり、当時最大と言われた買収額により、NationksBankに吸収され、その本店もサンフランシスコからCharlotteに移された。
一方、18位にランクされているSolomon Brothersは、引受けハウスというよりは筆者にはtrading house*としてのイメージが大きいが、97年にTravelers Groupの傘下に入り、同傘下にあったSmith Burneyと合併、Solomon-Smith Burneyとなった。しかし、翌年、Travelers自体がCity Corpと合併した為にCity Groupの一員となった。更に、12年にCityがSmith BurneyをMorgan Stanleyに売却した結果、“Solomon”の呼称は消失することとなった。
*この事を、wikipediaでは”proprietary trading”と表現してあるが、日本の“自己売買”に当たる(と思う)。何れにしろ、City乃至銀行の気風には合わず、BritishTelecomの合併騒ぎに関して多きな損失を出してからは、この部門は解消された様である。
また、“銀証分離”の稿で述べたCityBankによる系列化については、wikipediaの記述総体的に斟酌すれば、まず、Solomon-Smith BurneyをCityBankが系列化した後に、TravelersがCity Corpと合併した為、City Groupの一員となった、と解釈出来るかと思う。この間の経緯を他に検証する物がないため、不分明な点は残るが、結果City傘下に入ったこと自体は間違い無い。

ここに登場するMorgan StanleyはJPMorganと列ぶ米Investment Bankであり、この間のBoom & Bustの時代において他の名門証券銀行と同じ試練に遭ったが、08年のMUFGの資本参加(9B$-20年シェア-24%)等により復活を遂げ、現在に至っている。

そして、“Government Sachs”とも幾多の財務長官を送り込んでいるランク13位に登場するGoldman Sachsは、リーマンショック時にFRBの支援を受けたものの、独立Investment Bankとして存続してきており、日本においても、経営不振ゴルフ場を買収しアコーディアグループとして再編する等、活発な事業展開をしている。

この様に、日本において4メガバンク・2大証券(野村・大和)に再編されていく中において、世界的にも名門有力銀行証券の再編が進んで行ったが、上述の如く、その再編の方向性は、概ね、“証券“が資産規模において格段の差がある”銀行“に吸収される、と言う事であったと言って良い。
80年代半ば以降、野村證券は所謂“預かり資産”の拡充を盛んに喧伝していた。
これは、所謂株・債券売買に伴うSafe Keepingの拡充は勿論の事、所謂“一任勘定”的資産の拡充を目指したものであった。
先述、一勧事件から発展し野村證券に対する便宜供与によって初めてキャリア官僚が逮捕された件について、その理由の一つとして言及はしていなかったが、「中国ファンドは80年から開始され・・・投資家の資金を集める目玉商品であったが・・・解約日の翌日にならなければ解約金を受け取る事が出来(ず)・・・銀行の定期預金に比べ不便・・・著しく見劣り(していたので)・・・93年1月頃から・・(即日換金を認める)解決方法を集約させ・・・忽ち・・・規制緩和させた」(前掲読売)程、資産規模拡充に走っていたのである。
本来、資産の劣化度合に応じた自己資本規模こそが問われるべきであり、BIS規制・ストレステスト等のRisk管理・規制はこの趣旨のものであるが、一概に、資産規模が大きくなれば、同じ利益率1%でも規模の効用は働くし、同じ1億$の引受けの際のPosition能力も高まり、“証券”としての資産規模拡充意欲も理解しうる面はある。
しかし、大手とは言え山一やLeaman Brothersが倒産したのに対し、上述、危機の中でも、何等かの形で存続して行った他社との比較においては、やはり、FBのケースに見られる如く“too big to fail”的対応が規制当局から何等かの形であったろう事は想像に難くなく、また、00年当時の日銀の”大量緩和時代“において、所謂”ブタ積み“も、資金繰り困難な金融機関の実質救済策となった事からも、結局”勘定合わずに金余る“・”機関銀行“的役割を、暗黙の内に、資産規模拡大の内に求めうることが出来た、と言う事もあったかと思う。
この点、FBについて、この項冒頭において名門Investment Bankと記述していたがwikipediaにおいては“bulge bracket bank”と冠してある。
この表現は、90年当時はもとより、現在まで聞いた事がなかったが、“the world's largest multi-national investment banks”と定義されていることから、國際金融市場で競争力を持ち、國際的業務展開をなし得る“証券・銀行”を言うと考えて良かろう。
そして、このwikipediaでは、現在のそれらとして以下の名前を挙げている。

1Bank of America ⇔ NationsBank・Merrill Lynch
2Barclays
3Citigroup    ⇔ Salomon Brothers
4Credit Suisse  ⇔ First Boston
5Deutsche Bank   ⇔Bankers trust
6Goldman Sachs
7JPMorgan Chase  ⇔ Chemical Bank・Chase Manhatan
8Morgan Stanley  ⇔ MUFG
9UBS       ⇔ S・G・Warburg・SBC

上記の9社になるが、⇔の右側は、前述記述に基づく救済し、吸収・買収された銀行・証券を掲げている。
前述、この中で、Investment Bankとして単独に存続し得ているのはGoldman Sachsのみに過ぎず、他は全て“大銀行”並に“大銀行”に吸収乃至合弁・資本提供を受ける事になっている。
この“大銀行”の典型が二番目に記述されているBarclaysであり、同社は、前表のランキングでは37位に見受けられ、ユーロ市場ではその当時はS・G・Warburgに圧倒的に差を付けられていた。しかし、同行は英国四大銀行の筆頭であり、その後の変遷の中で、やはりその“資金力”から現在の地位を築いたと思われる。
そして、これらの名前の中で、仏系及び日系が見当たらないのも、もう一つ注目すべき点かと思われる。
即ち、前述Paribas乃至Paribas-BNPである。
筆者は、前述、“Selected Dozen”程度に将来のEuro-Playerは淘汰されるであろうと考えていた当時、当然、その中に、Paribasは残ると考えていたが、このランキングの引受けシェア-のParibas-BNPの合計数値を見ても、いずれのランキングでもトップ3には入って來るのであるから、その後の市場変遷・競争に、合併後の力量を持ってしても対応が難しかった、と言うことなのであろうか

そして、栄えある90年トップレフト1位を占めた野村證券、8位を占めた大和証券の名前は挙がっておらず、また、大和に次ぎ日銀系トップの9位であったIBJIも、合併後の“みずほ“の名前が挙がっていない事も、”失われた30年“を考えれば当然の事とは思われ、一抹の感慨を覚えざるを得ない所である。

長文になってしまったが、ここまで概観してくると、94年前後における住宅投資のピークは、ある意味、絶妙・最大・最後の機会であった事が如実となり、このタイミングでバブル蒙った損失・含み損を売却・損失処理を(ある程度)なし得た金融機関・建設会社・不動産業者は、その後、存続し得たが、猶、この間の経済対策・財政支援・金融緩和・規制緩和により“Grow Out”し得なかった企業は、直接的には97年のアジア危機により、また、自由化・規制緩和の進展の反面として、先の財務政策研究所の報告通り「金融機関の破綻処理の各種制度が整備」されていき、先の山一・長銀・拓銀等破綻処理された金融機関と関係する建設・不動産業者等企業も市場からの退出を余儀なくされた、と言う事であった。
結果「2001年の日本興業銀行調査部によると、バブルの後始末としての不良債権処理は、1997年には終了していたとされている」(wikipedia)
が、これ以降も、ITバブル崩壊・リーマンショックと世界的経済危機は連綿として発生していくわけであり、既に、03年時点で、「田中秀臣は『バブル期の銀行の貸し出しの総額よりも、現在(2003年)の不良債権処理額の方が上回っている。現在の不良債権は、バブルと無関係であり、その後のデフレーションによって発生した』と指摘」しており、“失われた10年”には止まり得なかった事になる。

橋本・小渕政権期の第一の特徴としての「住宅投資」は、斯様な、その成立の起源・経緯を持っていた、と言う事である。

次は、同政権期の第2の特徴である「在庫投資」について述べるが、稿を改めての事